ちょうしょうあんにおもう

聴松庵に想う

たぎ ゆかま     しょうらい たえ    わびちゃ しんずい ぬく

滾る湯釜から生ずる松籟の妙なる響きこそ、侘茶の真髄で、冬に温もり

せいか せいりょうかん しんしょうたいげん   きょくち ちゃぜんいっち ことわり

盛夏に清涼感をもてなす心象体現の極致は、まさに茶禅一致の理から、

そうとうしゅうかんちょう えいへいじ  ももとせまさ  えきほ ぜんじ

曹洞宗管長・永平寺住職で、百歳優る宮崎奕保禅師より、

あんごう ちょうしょうあん たまわ

庵号を「聴松庵」と賜りました。

 

            しょうらい ひび まつかぜ き かいそう

桐生山鳳仙寺は、松籟の響き・松風を聴くために開創されたとしても かごん 過言ではない。

じょうしゅ ゆらなりしげこう みづか ぼ だいじ かいき

桐生城主・由良成繁公は自らの菩提寺として、鳳仙寺を開基し、

ちゃくしくにしげこう にったかなやま  じし あきなが

嫡子国繁公を新田金山城主。次子顕長公には、館林・足利両城主に配して、

        おうぎ かなめ     たく しそく ちせいじゅつ ね

両毛地方の扇の要的桐生から、託した子息の治世術を、吹く風の音で

たの しょうあく 頼もしく掌握した。

こうねん ぞくよう           かなやまそだ ほか

後年の俗謡にも「私しゃ太田の金山育ち、他に木はない松ばかり」と

うた    ほど           ぜんさん まつやま かん にくしん じょうあい わ  おも

謡われる程、新田金山城は全山が松山の感で、肉親の情愛・我が子を想う

       じれき     あんごう    めいめい ぶつえん      けいふく

親心のと寺歴からも、庵号に最適な命名で仏縁の有り難さに敬服します。

              たけのじょうおう せんのりきゅう ししょう わび   おうぎ

開基・成繁公こそ、武野紹鴎(千利休の師匠)から、侘茶の奥義を

    でんじゅ             こうし     てんしょう

直接伝授された上州の正統茶人の嚆矢であり、天正四年(一五七六)桐生で、

ちゃのゆがまだいかいゆううばのくち い    ちゃわん    さどう ふうが きわ

茶湯釜「大海優姥口」を鋳させ、茶碗を焼き、茶道の風雅を究めた。

きたい せんごくだいみょう      ぼっ  りじん かんきょうおもむ ちゃしゅちゃきょう

稀代の戦国大名も、天正六年没し、離塵の環境趣く、茶趣茶境の

       ほうむ

鳳仙寺に葬られた。

                じょうおう     れいしきじきでん ちゃごうしゃ ほま

桐生城主・二代国繁公も紹鴎・成繁公から礼式直伝され茶巧者の誉れは

おだわらおもて しゅうち           ほうじょううじまさ うまやばし

小田原表にも周知された茶人で、北条氏政は天正十一年厩橋城(前橋)に

         ふうが              あきなが  ひんきゃく

茶室を建て、風雅なる茶会を催し、国繁・顕長公は、賓客扱いで 招かれている。

この茶会こそ上州(群馬県)における、最初の茶会とされております。

                          ひつぜん       じれき えんげん

以上の如く、鳳仙寺には、茶室や茶会の必然が存在し、寺歴の淵源を熟考

          おうぎ きわ                               

すれば、茶道の奥義を究める茶人専有利用に限らず、願わくば、

      だんしんとかくい きずな

多くの壇信徒各位が、家族の情愛と肉親の絆。

                 いたわ    うやま       とうと

人がひととして最も尊い「労る心」「思いやる心」「敬い尊ぶ心」を語り合い、

  再確認する「場」としての活用を望みます。

                                        がっしょう

                             合 掌

                      桐生山鳳仙寺 現住良廣 記